我慢する事と耐える事
「我慢」と「耐える」事は、
同じ様なものだと感覚的には感じます。
しかし本質的に全く異なるものだ、と言えます。
これは生前の高橋信次氏から、直接講和を聞かせて頂いた時に、心に「知識」として、ある言葉が残っていました。
しかし、
それを心でしっかりと感受する事は、出来ていなかったようです。
何がどの様に、違うというのでしょうか?
最初、聞いたときに、その違いを理解する事は、出来ませんでした。
それから、三十有余年と言う月日を重ねて、
今日、2002年12月10日になって、やっと理解できました。
その違いの中に存在しているのは、
「愛情」があるかどうか、ということだったんです。
勿論,論理的、言語的には十分いままで理解していたことがらです。
でも心がしっかりと、
感覚的・現実的に把握していたとは、言えなかったのです。
最近、とある事件が勃発しました。
それは、私と女房との間で起こったことです。
ある日、私に電話がかかってきました。
掛けてきた人は、私のお客さんであり、
今まで何度も私の家に宿泊し、親交を深めて来た人からの電話でした。
その方が、
「今度そちらへ治療に行く時に、次の日に大阪に用事があるので、その日泊めて頂けませんか?」という依頼の内容でした。
勿論私は、いつも通り直ぐにOKの返事をしました。
「NO」という理由が、見当たらなかったからです。
ただこの時、少し心によぎった思いがありました。
それは「女房に話してから後で電話を掛ける」という想いでした。
そして二、三日過ぎてから、女房にこの話をしたら、余りにもキツイ言葉で、この様に言うのでした。
「お父さんは○○さんに、私の悪口を言っているんでしょう!!! ○○さんは私に、『あなたは我侭な人だ』と、面と向かって言ったんです!!!」
「何でそんなことを言う人を、私がお世話しなければいけないんですか!!!」
「○○さんはお父さんの言うことだけ、信じているんですから!!!」
と、けんもほろろに言われたのです。
この言葉は、「○○さんを泊めたくない」という厳しい言葉でした。
でも私は、彼にOKと言った以上、
彼に「泊める事が出来ない」という事を言わなければならなくなりました。
そしてどの様に言おうかと思い、心が定まらなかったので、
落ち着くために、パソコンをいつものように利用して、反省をし始めました。
自分の気持ちを正直に、パソコンに書いて行きました。
暫くして心が落ち着いたので、直接電話を掛ける事にしました。
丁度電話口に彼が出てくれました。
「○○さん、実は先日お願いされていた宿泊の件ですが、女房が都合悪いという事を言っていたので、本当に申し訳ないんだけど、他を当たってもらえませんか?」
と、言いましたが、どうしても私の気持ちは申し訳ないという気持ちと共に、彼には今まで腹蔵なく話をしているし、本当の事を言うのが大切だと心の底から思っていましたので、
「○○さん怒らんと聞いてや。何時かは判らんけど、○○さんは女房に対して、『あなたは我侭な人だ』と、言った事はないですか?」
と、問い質しました。
当然そのような事を、急に私から言われると、相手は驚きますね。
彼がその様な状態になったと、電話先から感じる事が出来ました。
彼は、
「そんな事言ったかなー? そんな覚えないけどなー?」
そう言うのも無理はないと思います。
でも言わなければならないのも、辛いものです。
「実は、その様な事があったと彼女は言っていて、怒っているんです。それで本当に申し訳ないんですが、他を当たって頂けませんか?」
と、言うのがやっとでした。
「勿論このようになった原因は、私にあると思います。実は彼女はそれ以外に、私に対して心の不満を言いました。その不満とは、私がお昼になって、テレビゲームをしている姿を見て、腹が立っているんや」と。
また、
「私に対する彼女の不満は、○○さんが、私の言う事だけを信じているという事で、私に対する面当(つらあて)てをしていると思うんです。 そして、彼女が私に、面当てしていると、そう捉えられても仕方がないと思います。」
『勿論あなたが、「女房に我侭だ」と言った事は、女房の意見を信じるのなら間違いはありませんが、ただ彼女が言うには「私は朝から晩まで働きっぱなしなのに、お父さんはゲームをして遊んでる」「だから腹が立つんや」』
と言っているんです。
「このことから判るように、女房が、『自分は仕事をさせられている』
という心を持っていることは間違いはありませんが、これは今までの経緯(いきさつ)の中で、仕方がないことなんですが、その不満が一気に爆発したんだと思います。」
と、ここまで言う事が出来ました。
でも本当に、
私の気持ちは辛かったのは間違いはありません。
また彼と話をする機会が無くなって、残念だと思っています。
確かに彼女が働いてくれるから、何とか子供を高校にまで行かせる事が出来ています。
彼女は下の子が二歳四ヶ月の時から働き始めましたから、少し精神的にしんどくなったんでしょう。
自分だけが外に出て働いているという事が、私が家で仕事をしている事と相まって、心の負担になっているのかもしれませんし、私が家に居て仕事をしているのが、癪(しゃく)に触っているのかも知れません。
でもまだ次に下の子が高校に入りますから、大変です。
夫婦共に頑張って行かないと、
しっかりした教育を受けさせる事が出来ませんから。
彼女が専業主婦に成りたいのも判りますし、アルバイト程度でやって行ければ良いというのも判りますが、それでは私が急にこの世から居なくなった時に、彼女がたちまち困るので、私は心を鬼にして、働いて欲しいと言いました。
これは詭弁でも何でもありません。
その様に感じたから、将来を心配して言ったのです。
今になって思えば、それまでは、本当に信じられないような事が起こってばかりで、逆に子供を育てるのに苦労されている人から見れば、まだまだ幸福な私達だと思います。
しかし「女心」として思うのは、
女でなければ判らない事の方が多い、のは当然だと思います。
でも逆もまた、然りです。
このような事件が起こってから考えました。
そしてその結論として、私は「耐える」という事の必要性が判りました。
それは、その人が
「自然に、わかるようになるよう、配慮する」
という事だと思います。
その人が
「判るまで、待って上げる」
という事だと思います。
「待つ」という行為が、必要なんですね。
そこに、愛情がなければなりません。
愛情が無いために、怒るわけです。
そして結果を早く知りたがる、せっかちが、怒りの心を産みます。
自然に理解できるように、待つ。
何年でも何十年でも、
もしかしたら、判らなくても良いけど待つ。
彼や彼女が、判る時が来るまで、待つ。
それを耐える事だと思います。
今回のこの事件で、
本当に自分が何も判っていなかった事が、判りました。
耐える事は、決して辛いものではなかったんですね。
我慢は本当に辛いものですが、耐える事には、楽しみがあります。
何時判るかはわからないけれど、
その人の生長を見ることが可能になります。
そしてその過程を大切にする事が出来ます。
何事も自然に判るようになる心を、
もっと養って行きたいものだと思います。
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